真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

わがままと自由とはどこが違うのか

◎昨日、あるブログ記事を読んでいて、「わがままと自由」の違いが述べられていた。そして、自分でも改めて考えてみたいと思い、今日のテーマとすることにした。
◎まず、元記事を探してみたが見つからない。また記憶もほとんどない。嘆かわしい。何事も記録は残しておくものである。後悔頻りである。
参考資料⇒「カウンセリングサービス■心理学講座「わがままと自由の違い」」(見つけた!!!!)。改めて読んでみたが、そこからはいまいちわがままと自由との違いが読み取れなかった。
◎というわけでもないが、自分のブログ記事内で「わがままと自由」を扱ったものを探してみた。残念ながら、自分のこのブログ内で「わがまま」を題名に使った記事を探したが全くなかった。
◎次に、「自由」を題名内に使った記事を探してみた。すると、「宗教と表現の自由」「自由と平等は対立概念?」という二つの記事が釣り上がってきた。それで、「宗教と表現の自由」から引用。

自由は自己責任・自己抑制がうまく機能して初めて互いに使い合えるものであろう。それらが取れないならば単なる"わがまま"に堕落する。
◎その引用部分に自由とわがままの違い(自己責任・自己抑制の有る無し)が述べられているが、改めて、「わがままと自由との違い」を考えてみた。上の引用にある「自己責任・自己抑制」をキーワードにすると、見出したものは、階層構造である。
「階層構造」=from"Wikipedia"とはどんなものかについて定義してある部分を"Wikipedia"から引用。
各階を、下層から上層へと順に積み重ねて全体を構成している場合の構造
ある要素が複数集まることでひとつのユニット(集合体)を形成し、そのユニットが複数集まることでさらに大きなひとつの大ユニットを形成し、その大ユニットが、、、、という構造
◎階層構造は宇宙の基本方式である。私は定義のうちで二つ目の方式を特に「トーナメント形式(構造)」と呼んでいる。人間の知も階層構造を成している。
◎それは、感覚⇒感情⇒知性⇒理性と上へ積み上がる階層構造になっている。 ユングは性格類型として、1)思考型、2)感情型、3)感覚型、4)直観型と分類した。
◎その内で、感情は、感覚から上がってきた情報を、自分(自我)を基準点として価値判断する機能である。「わがまま」は、この感情的判断に基づいて行動する、欲求することである。
◎赤ん坊が無垢なのは、感情が主体にはまだいたっておらず、さらにその下の段階の感覚が行動の判断基準になっているからである。つまり、そこにはまだ自我が生まれていない。
◎赤ん坊と動物の特に幼い時期の動物がかわいいと感じられる理由はそこにある。私も大人(5〜6歳?)の猫を飼っているが、彼女(メス猫)をからかうのを楽しみの一つにしている。
◎その赤ん坊がやがてその内反抗期に入るのは、感情を主体とした自我が育ってきたからである。親としてはそこへ知性という社会性を持ち込むことを躾として行わなければならない。社会性を育てることが親の大きな仕事である。
◎話を戻すと、子供の知性には、まだ個人的感情が強く混ざっている。下手をすると、その知性は、個人的感情に強く取り込まれた、ずる賢さへと変貌しかねない。
◎そのまま社会性を伴わないで大人になれば、振り込め詐欺などを働く知性となりかねない。あるいは、嫉妬に狂う魔女的存在ともなりかねない。
◎個人という起点から価値判断しかねない知性に対して、理性は社会(集団)という起点から判断する、脱個人化された思考である。
西田幾多郎は、行為的直観を、「物と成って見、物と成って考える」という姿勢だという。自分という主体を完全に抜き取って、純粋に自分と相手(物)を同一地平に置いてみる視点(共感)とも言える。
◎このように見ていくと、ユングの「直観型」と、西田の「行為的直観」と、「理性」とはある程度似通っていると思える。
参考資料⇒カントの「純粋理性批判」=from"Wikipedia"頭が痛くなるような言葉が連なっているが、興味のある方は一読を。
◎この判断ができるのは、大脳皮質にある前頭前野(前頭連合野)である。特にその内でも内側部分である。ここにはすべての脳内の情報が集まる。また、共感する機能もある。
前頭前野は、下位階層を抑制する働きがあり、下から上がってくる情報すべてを総合して判断する機能を持つ。つまり、感情をうまく制御してくれるのである。
◎自由とは、何をしてもよいというわがまま的自由ではなく、また下位階層に押し切られる形でやむを得ず選択する衝動的自由でもない。
◎あらゆることを考慮に入れて、そこから最善の判断をする、自我という枠にとらわれない心の自由である。行動の自由ではない。孔子の言う、「心の欲するところに従いて 矩を越えず」の心境で判断する自由意志的自由である。