真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

人間には、2つの意識層がある。

人間には、2つの意識層がある。でも、それらは、心理学でいう、意識層と無意識層でもない。でも、このテーマで以前になにか書いたことがあるように思えた。
なので、自分のブログの過去記事を検索したら、私は、以前このブログで、"意識(自我)と無意識の関係は人と神との関係"、という記事を書いていた。
でも、これとは違うんだけどなあと思いながらも、読み返してみた。そこから引用。
「人間だけが、無意識をやすやすと圧倒するほどの意識を手に入れた」。
意識(自我)と無意識の関係は人と神との関係とは、意識=人、無意識=神であり、当然無意識のほうが上であるが、人間では普通、無意識よりも意識のほうを重視している。
注)このこと(無意識よりも意識のほうを重視)が、楽園(神の支配地からの)追放と関係していると思える。意識(人間界)は無意識層(自然界)にないものを作り出せる能力である。道元は、意識を迷いといい、無意識を悟りとよんだ。
話を2つの意識層に戻す。ところで、精神分析学者フロイトは、人間には、2つの意識層ではなく、「イド」、「自我」、「超自我」と、精神構造を3つに分けた。
イドは、快楽原理に基づいて、本能のままに、あれがしたい、これがほしいと欲求を出して満足を求める。
自我は、イドの上に存在し、理性的にイドをコントロールする。
自我の上に立つ超自我は、道徳的、意識的であろうとする。
私が話を進めたいのはこれとも違う。意識層が階層構造で、下から上へと意識が成長して、積み上がっていくという面では同じなのだが。
ここからは、私が考える、2つの意識層について述べていく。私は、以前このブログで、"恥ずかしいとはどういうことなのか" 、という記事も書いた。
そこから引用。「恥とは、なんらかの比較の基準にもとづく劣位の感情」である。
フロイト的に言えば、「自我」の言動が、「超自我」の基準に照らし合わせて見た時、劣位の感情(恥)を覚えたということだろう。恥の感情は、上下(優劣)の落差を感じる意識である。
自我の言動を超自我の基準で言えば、劣っていると。日本は恥感情を重要視することから、「恥の文化」だと、アメリカの文化人類学者にルース・ベネディクトが言った。
それに対して、欧米の文化は「罪の文化」だという。法律(契約)や神の監視の目からは、善悪の区別が意識される。他方、恥の文化では、世間(社会)の目が強く意識される。
つまり、照らし合わせる時の基準が、法律や神であるか、世間であるかである。
話が変わるが、夢から覚めた時に、あああれは夢だったんだとわかる。だが、夢の中にいるときには、これは夢の中だとはわからない。
夢見という自分の過ごす全時間の一部だということが、自分の時間全体を見渡せる時(位置に立って)になって、やっと分かる。
催眠術でも、かかっている間は、自分が他人に操られているという認識が消え去り、つまり、より広い、より高い層である「超自我」が機能していない場合には、術者に操られてしまう。
逆から言えば、自分が他人に操られているという認識があるかぎり、催眠術にはかかっていないのだ。
例えば、あなたはにわとりだと言われれば、それを疑う機能(認識)が眠っているので、自分はにわとりだとしてその場を生きる。
同じように、夢の中にある場合には、登場するものが全て本当だとして疑わない。疑う意識が眠り込んでいるのだから。
これは、前景(焦点化したもの)と背景(広い地図)という関係でもあろう。別の言い方をすれば、図と地の関係でもある。写真では、人(前景)を撮る場合には、どんな背景の中に置くかを考える。
認知症で、時間・場所・人物などから、自分のおかれた状況を判断する機能を「見当識」という。
その見当識が低下すると、今、いる場所が分からなくなってしまう、日付や曜日の把握が難しくなってしまう、見たことのある人でも、自分との関係性(時には、親子関係、夫婦関係すら)が分からなくなってしまう。
これも、全体という背景の中に、前景や図を正しく定位できないからだろう。催眠術にかかっている人や夢の中にある人のように。
だけども、これは認知症者ばかりでなく、誰にでもありうる。ただ違うのは恒久的か一時的かの違いである。初めての場所では、今自分はどこにいるのかわからなくなることも多い。これは、その付近の地図が頭のなかに描けていないからである。
あるいは、山の中で、霧に囲まれて、今いる場所を定位できなければ、慣れた山(全体を知っている場所)であっても、遭難する可能性もある。
あるいは、また、例えば、人前で、思わずケップをしてしまった時、「超自我」の基準に照らし合わせて見て、恥ずかしいという感情が湧き上がる。
しかし、まだ「超自我」が形成されていない幼い子供では、恥の感情は生じない。だから、幼い子どもたちでは裸を恥ずかしいとも感じない。
裸の王様になってしまうのは、自分の周りには、イエスマンばかり(偏った地図、偏った背景)になって、自分の立ち位置が強く歪んでしまうからである。
これは、部分(劣位)と全体(優位)という言い方で表せられるかもしれない。部分(劣位)は、全体(優位)の中に定位して初めて評価が下せると。
当事者(一者、二者:主観)と第三者(客観:岡目八目)という表現もある。渦中にある当事者が、渦中から抜けだして第三者の位置に立つことも必要である。
しかし、第三者の位置は、冷たいとか、無関心とか、冷めているとか、冷静だとか、みなされる。
部分(劣位)と全体(優位)=自我と超自我=夢中と覚醒時=被催眠中と覚醒時=当事者(主観)と第三者(客観)。
つまり、焦点化したものは、背景の中に定位ではないならば、それを正しく認識できたことにはならないのだろう。
では、はじめに戻って、意識と無意識との関係はどうだろうか。私には、意識と無意識=部分(劣位)と全体(優位)、と思えてならないのだが。
しかし、西洋的思考では、意識と無意識=全体(優位)と部分(劣位)、という認識があるように思える。