真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

自閉症と社会性、無意識と意識

夏目漱石の「草枕」の冒頭は、「山路を登りながら、こう考えた」、という言葉で始まる。
散歩は、思索に最適な手段である。が、私は、最近、サイクリングを思索の時間、手段として利用している。
サイクリングを始めた頃には、とても思索どころではなかったが、体力もつき、ペダルを踏むことに力と意識を使わなくてもよくなり、風景を楽しめるようになった。
そんな頃になって、自然と、あれこれと、考えが浮かぶようになり、それからは意識的に思索するようになった。
つまり、私は、サイクリングを無意識に任せて、意識を思索に専念させることができるようになった。
草枕の言葉を借りれば、山路を登りながら、あれこれ考えられるようになった。
そういうことで、無意識と意識という言葉を思い浮かべた時、即座に、自閉症と社会性という言葉も思い浮かんだ。
ということで、話をそっちに振り向ける。さて、何故だろうかと考える中で、無意識はボトムアップであり、意識はトップダウンだということに思い至った。
別の表現を借りれば、無意識は欲求であり、意識はそれをトップダウン的に抑制する機能を持つ。
意識の抑制機能が、今ここの欲求を押しとどめて、その場での最適な行動を選択する。それが社会性であろう。
赤ん坊が、三歳頃へと成長すると、自我(即ち、他我を意識する心)が芽生える。自分の欲求を他我に言葉で表現する。
その頃、親(他我)の側は、親からの希望、期待を述べる。結果、子供側の欲求と親側の希望とがぶつかり合う。
自分の欲求だけを主張していると、親は悲しんだり、怒ったりするので、自分を抑えることで、親を喜ばせようと、自己抑制するようになる。
これが社会性ある。つまり、社会性とは、自己抑制から始まる。
だが、自己抑制が強過ぎると、自己がなくなる。あなたは何がしたいの、と尋ねられても何も思い浮かばない。日本人に多い。社会性過多症。
自閉症では、自分の欲求を社会性へと結び付けるルート(多くは言語能力)を持たないので自閉せざるを得ない。
しかし、社会性という外への計らいに時間や行為を裂かないで済む分、自分の欲求に思う存分付き合うことができる。
その結果、社会性の高い、広い常識人には到底真似ができないほどの驚異的な能力を発揮することもままある。
ある程度の社会性を持ち合わせていると、天才と見なされるかもしれない。