真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

芸術とは表現者(物)と鑑賞者とが相互に作用し合う活動

「芸術」
◎今回、ブログ記事の題名に、「芸術」という言葉をつけた。ところが、その言葉を持ち出すには、私は、最も遠いところにいる人間である。
「芸術と縁のない記事」
◎例えば、私は今までこのブロクに569本の記事を書いてきた。だのに、その中で、「芸術」という言葉を使った記事はたったの6本(1.05%)である。
「1本だけ」
◎しかも、その中でも、まともに芸術を取り上げたのは、俳句を取り上げた1本だけ(0.176%)である。それ以外は芸術が主テーマではなかった。それ程に、私は芸術には疎い人種である。
「相互に作用し合う」
◎ということで、まずは、「芸術」=from"Wikipedia"を調べると、「表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的感覚的な変動を得ようとする活動」だと述べている。
「リュ・シウォン」
◎芸術に縁遠い私が、今日、なぜ、「芸術」を取り上げたかの話から始めたい。それは、ふと、妻が大切にしている「リュ・シウォン」のCDを見かけたからだ。
「なぜ韓流スターにはまるのか」
◎そこから話が進んで、「なぜ妻を含めて団塊世代の女性たちは、韓流ドラマ、韓流スターにはまっているのだろうか」と考え込んでしまった。
「内と外とが響き合う」
◎何がそうさせているのだろうか。そうすると、「内と外とが響き合う」という言葉が浮かんできた。そこから、それって、芸術なのではないかと思い至った。
「精神的感覚的な変動」
◎ということから、「芸術」の定義をあらためて示すと、「表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的感覚的な変動を得ようとする活動」とある。
「内面に持ち合わせる」
◎つまり、団塊世代の女性たちが、「韓流ドラマ、韓流スター」に虜になるのは、それらと「精神的感覚的」に響き合うものを彼女らが内面に持ち合わせているからなのだろう。
「外にあるものの中に流し込む」
◎芸術家は、自身の中にある「精神的感覚的」な(いまだはっきりとした形を持っていない)マグマを、外にあるものの中に流し込む活動家である。
「鑑賞して共感する」
◎それを、心の中に響き合うものを持ち合わせている者が鑑賞して、共感する。時には、感激のあまり涙を流す。精神的涙は内と外との強い共感の印である。
「自分の内面を意識化」
◎芸術を見て、響き合う共感者は、自分の内面を意識化できる。自分にはこんな心模様を有していたのかと知る。時には、過去の再体験すらもたらす。
カタルシス効果」
◎そのようなことから、芸術は「カタルシス効果」をもつと言われる。この言葉は、「もともとは体内にたまった汚物を体外に排出し体内を浄化するという意味のギリシャ語」であったそうである。
「たまっていたものが排出」
◎「無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛で屈辱的な、あるいは恐怖や罪悪感をともなう体験やその表象を、主体が想起しそれを言語化するときに、その体験や表象にまつわりついている感情や葛藤がその言語表現とともに表出され、それによって「たまっていたものが排出」され、心の緊張がほぐれるようになる」という心理的効果もある。
「浄化作用」
◎具体的には、「観客が演劇をみる中で主人公に自分を重ねあわせ、主人公のその心情の動きを自分のこととして一喜一憂することが、なんらかの浄化(カタルシス)作用をもつ」
「自分の中にある知識や情報が活動」
◎私は以前、このブログに「二種類の読書方法を比較してみた」という記事を書いた。そこから少々長いが引用。

私は読書を「思索」の手段として使うからだ。つまり、遅読は、精読である。「意識」(能動性)を使う遅読・精読をすると、そこに書いてある言葉や表現に触発されて、自分の中にある知識や情報が活動し始める。速読でもここまではありそうであるが。能動性というが、自分で意識的に考えるというよりも、著者の言葉と、私の体験とが作用し合って、何らかの結論へと導かれてゆく感じである。この熟成は遅読でないと味わえない。そして、そこから、何らかの新しい考えやアイディアや結論などが生まれ出てくる。私は、それらが生まれるのに立ち会う助産師的な役割をしているような気がする。
「芸術鑑賞方法」
◎芸術鑑賞においても、単に知識・情報を得るための鑑賞と、上の引用で示したような読書方法と同じ芸術鑑賞方法があると思える。
「牛の反芻」
◎この方法は、牛の反芻を思い浮かべる。「反芻」=from"Wikipedia"とは、「食物を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化する」行為である。
「口に戻して咀嚼」
◎部分的にしか消化されていないものを、再び口に戻して咀嚼する、読書方法、芸術鑑賞方法もある。これは浄化(カタルシス)作用・効果と共通性を感じる。
「解決し終わっていない内容を再体験」
◎牛の反芻にしても、浄化(カタルシス)効果にしても、思索のための読書にしても、それらは、「消化し切れていない、解決し終わっていない内容を再体験する」方法だといえる。
「ゆったり芸術を鑑賞」
◎私たちは、心の中に消化し切れていない体験をさまざま持っていることだろう。それらを解消するために、ゆったり芸術を鑑賞したり、ゆっくり読書したりする時間をもちたいものである。