真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

学校は一般教養の場、家庭は個性を育てる場

ブログ記事を書く気力が萎えてきたので、歳のせいなのだろうか、目的を果たしたせいなのだろうかと、気になっていた。
久しぶりにブログ記事を書きたくなったのは、この記事「日本で学ぶという不幸。シンガポールの教育水準がもう追いつけないレベル - まぐまぐニュース!」を読んだからである。
私にも、初孫が誕生(2015/07/30)したので、孫の将来を思い描きたいという気持ちが、ふつふつと沸き上がって来た。
だが、以前から教育にも大いに興味、関心を持ってはいたが、孫の将来への夢(心と頭を育てるという夢)が、大きく膨らんで来た。
私は、以前、このブログで、「子どもの教育を重視するならば、父親は家に返ろう。 - 真 夢人 日記」、という記事を書いた。そこから引用。
「教育格差、情報格差、端末機格差を生み出すのは家庭である。子供には教育という財産を与えよう。政治の世界で世襲化がどんどん進行(侵攻)しているが、子供の頃からその方面に浸って感性を磨く必要があるほど時代は高度化しつつある。それはどの分野にも言えることである。時代は職人的気質を必要とする時代にある」
また、このブログで、「私は、教育=愛情だという結論に達した。 - 真 夢人 日記」、という記事も書いた。それから引用。
「家庭にあっても、学校にあっても、企業にあっても、自己の能力を最大限に発揮したいという自己実現欲求を実現させる方向へ向けさせる支援をすることが必須の時代である。それが、相互作用によって、家庭の、学校の、企業の成長発展へもつながる」
だが、残念ながら、日本では、教育は、いまだに、個性をなくす方向へ差し向けられている。だから、私は、学校(大学にあってすら)を、一般教養的知識を受ける場と見なすに留める。
いまだに、「ダブルスクール - Wikipedia」は生きている。
そして、だから、家庭が、子供達の個性、才能を見出だし、引き出し、さらに、体験、経験を提供する場とするべきだと思っている。
ということで、もはや、父親は、単に、家庭に、せっせと、お金を持って帰る、働きアリであるだけであっては、駄目な時代に来ている。
昔は、父親は、お金を稼ぐだけではなく、子供の教育、実用教育担当者でもあった。だが、資本主義時代になって、父親は、会社に取られてしまった。代わりに、国が教育を担当するようになった。
教育の主導権を国に取られた結果、子供も、会社にふさわしい性格、知識を持つように、仕向けられていった。
だが、今や、知価社会、知価時代にあっては、個性、才能(特に個性的な才能)、個性的体験(経験)が、職業に求められている。しかも、レベルの高いものが、要求されている。
オリンピック関連の競技場問題、エンブレム問題は、デザインという高度に知的な部分が、知価に関する部分が、核心にあった。これらは、個性が大いに関わる部分である。
これらの事件は、日本社会に対して、もの自体よりも、知価の方が、重要な要素であることを、知らしめたということで、大きな意義を持つ。エポックメイキングな出来事であった。
頭の中に、他人とは大いに異なる、知識や体験を時間をかけて、蓄えて置かなければ、生まれて来ない、ものである。奇抜な発想は、出すに連れて、種切れになる。十分な充電時間も不可欠である。
他人と同じ知識、同じ経験では、個性は芽生えて来ない。個人個人が、異なった種として、その種にふさわしい土壌で育て上げられるべきである。