真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

体罰は未熟な指導方法であり、法的なルール違反である

1)もう事件発生からかなり経つが、大阪市立桜宮高校2年の男子バスケットボール部主将が、顧問の教諭から体罰(昨年12月22日の練習試合の際、生徒に暴行を加えた)を受けた翌日に自殺した問題を考えたい。
参考)防げたはず!大阪桜宮高校バスケ部の体罰自殺 ずさん調査で早々と「顧問教師はシロ」の判定 (1/2) : J-CASTニュース
2)この件で、ブログを書くのがこんなに遅くなったのは、自分の中で、まとまらなかったからである。それで、さまざまな人々の意見を読んでみた。
3)体罰は暴力だという人。いな、イジメ行為だという人。実際、自殺した主将のご両親は、顧問を暴行の罪で刑事告訴しておられる。
参考)桜宮高・自殺生徒の両親「体罰教師を告訴」暴行容疑で起訴濃厚 (1/2) : J-CASTテレビウォッチ
4)体罰によって、チームがここまで強くなったのだから、と体罰を擁護容認する人。あの顧問は、熱心でチームを学校を強豪校に導いたという人。体罰を受けて自殺するのは弱い人間だという人。
5)私が述べたいことは2つある。まず一つ目が、体罰は、日本では禁止されている。それを行うのは、ルール違反である、ということである。
6)スポーツは、ルールをとても重視する。それを愛する指導者が、ルール違反を平気で行なっている。ルールが、単なる争いから、競技へと格上げしてきた。ルールの範囲内で、正々堂々と行動するのが当然であろう。
7)体罰は選手を強くする手段だと、容認擁護している人々は、体罰は明確なルール違反だということを、自覚すべきである。しかも、法的にも違反している。
8)もう一つは、指導については、それを2つに分類したい。一つ目は、1)指導内容、例えば、技術、知識、経験など。もう一つは、2)指導方法、例えば、内容の伝え方、指導理論など。
9)保護者などから、指導がうまい、熱心だから、ここまで、強いチームになれた、などと、体罰があるから、体罰があっても、顧問を擁護する声が上がる。
10)これは、指導内容と、指導方法とを、きちんと分けて考えないことからくるのではないだろうか。顧問の持つ指導内容がいいから強くなったのではないだろうか。
11)高い技術、豊富な知識、長い経験を持つ指導者は、自ら手本を示すだけで、選手にとってはすばらしい見本、目標になる。
12)次には、自らを鏡として、自らがやってみせて、選手に己の、どこが悪いのか、何がけいないのか、どんな失敗をしたのか、を解説すればいい。
13)だとすれば、体罰があるから強いチームになったのだろうか。逆から言えば、体罰のない指導では、強いチームにはなれないのだろうか。
14)体罰のない指導ではチームを強くすることはできないのだろうか。強くなったチームでは全て体罰が行われていたのだろうか。
15)私は、体罰による指導を否定するが、迫力のある指導まで否定するつもりはない。逆に、指導に渾身の力を込めて、全身全霊で指導することを、指導者の方々には期待する。
16)誰もが経験されているだろうが、近くで、大声の叱責があれば、こちらまでその気持が伝わってきて、まるでこちらが叱責されているかのような感覚を覚える。
17)そこまででいいのではないか。それを体罰という形でそれと同等の効果を望むならば、それは怠慢であろう。手を抜いている姿であろう。未熟さの現れであろう。
18)私から見れば、体罰は指導の手抜きの姿である。すばらしい指導内容は持っているかもしれないが、指導方法を研究しない、手抜きを覆い隠す手段であると感じられる。
19)親、教師、上司など、指導者であれば、すばらしい指導内容を持ち合わせることは言うまでもないが、それを効果的に、効率的に、有効に、伝えていく方法、手段をも合わせて、身につけてゆくべきであろう。
20)指導者(親、教師、上司など)が、指導を受ける者から、反発を受けたり、彼らが投げやりになったりするのは、指導方法を磨けとの叱責である、と自らに言い聞かせるべきであろう。
21)それを体罰という形で、強引に、いうことをきかせるのならば、それは明らかに怠慢、未熟さ、手抜きを意味している。
22)少し話を脇へ逸らすが、幼い子どもたちは、自分の怒りの意思表示として、手を上げがちである。自分の気持を押し通す手段として暴力に訴えがちである。
23)そのような子供へのしつけでは、身体的暴力から、言葉での表現へ、と導くのが、親や指導者の当然の指導手順である。これは外交能力、交渉能力を身につけさせることを意味する。
24)国レベルにおいても、自分の主張を押し通すために、暴力に訴えるという方法が、今だにまかり通っている。それが唯一の方法だと考えている国すらもある。
25)成熟した国においては、外交手段という、ある意味言語による交渉、説得などの、平和的解決方法を選択する。
26)とはいえ、残念ながら、現実的には、すべての国より上位にあるはずの国連の存在感があまりにも薄いゆえに、国連が作ったルールは無視されがちである。これはルール違反者を処罰する有効な手段を持たないからである。
27)しかし、法治国家である日本においては、ルール違反、特に法的なルール違反は、罪である。それを犯している人々を容認するのでは、法治国家とはいえない。
28)体罰は、法的なルール違反であり、指導方法としても、未熟な手段である。それを、チームが強くなるからという勘違いで許すのは、罪を放置するに等しい。
29)保護者や同僚や管理職が、体罰を放置、容認、擁護するのは、いじめを放置、容認するに等しい。放置、容認が、体罰を当たり前と勘違いさせる。
30)私には、体罰は、そのような、未熟な指導方法と見える。この体罰を根絶するには、差別を政治的になくす活動をしたのと同じような政治的活動が必要である。
31)とはいえ、相手の行動を止めねばならない場面はいくらもある。その時には、相手の心、気持ちを、圧倒するような、渾身の迫力のある指導方法は必要である。
32)逆に、子供のふざけやいたずら、行き過ぎた行為に、普通の声で、やめなさい、という声掛けしかしない親や教師もかなりいる。
33)そのような迫力のない言い方では、子供は行動を止めないことが多い。学級崩壊する担任教師に、そんな事例がままあるとも聞く。全員の行動を一時ストップさせて、ゆっくり考えさせる時間を与えるには、場の空気を破裂させるほどの迫力が必要である。
34)しかし、それを暴力、体罰で、行わなければならない必然性はまったくない。指導者の指導方法の力量も伸びていくことを望みたい。