真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

なぞなぞを解いてください

[なぞなぞ]
◎今日はなぞなぞ(クイズ)から入って行く。では、なぞなぞをお考え下さい。"親は子どもに対して責任がある"というのは、"親は子どもに対して責任がない"、というのと同じ意味である。
[反対は同じ??]
◎この意味がお分かりになりますか。"ある"が"ない"と入れ替わるという、全く反対のこと、をいっているのに同じ意味だとはどういうことなのでしょうか。
[潜む意味にまで視野を広げる]
◎ではまず、手がかり(ヒント)を一つ進呈する。それは、私たちは文を聞いたときに、その背後にある、潜んでいる意味にまで視野が広がってゆくかどうかである。言葉は必ず背景を持っている。
[言葉も背後に]
◎人を撮した写真のように、人の背後には風景が映り込まれる。言葉も必ず背後にさまざまなものを抱え込んでいる。言葉にも背後霊が。うん??、"オーラの泉"の見過ぎかな。江原さんの無邪気さには脱毛、いや脱帽です。
[相対的な言葉]
◎それをもう少し具体的な言い方に変えてみる。それは、"親"も"子ども"も、ともども相対的な言葉であるということである。相対とは、互いに関係を持ち合って成り立っているということである。この説明では逆に分かりにくいですね。
[相手が変わればこちらも変わる]
◎分かりやすく(?)いえば、相手が変わればこちらも変わるという関係にあることである。逆から言えば、こちらが変われば自ずと相手も変わるという関係である。話をそらせるが、相手を変えたければ自分を変えればよい。
[順(ある)と逆(ない)が同じ?]
◎次ぎに進んで、次のような表現、"社長は社員に対して責任がある"というのは、"社長は社員に対して責任がない"というのとは、同じ意味ではない。この表現の場合には順(ある)と逆(ない)が同じというのは成り立たない。とはいえ、"成り立つ"と強弁もできるが。
[相手次第]
◎ではこの辺で、種明かしとまいりましょうか。私は四人の子どもの親ですが、私の親に対しては、私は"親"ではなく、"子ども"ですね。 "親"とか"子ども"とかは、そういう点で相対的だといえる。相手次第である。
[言葉は絶対的存在になれない]
◎同様に、社長も、自分の社員から見れば社長だが、他社の社員から見れば、ただの"おっちゃん"である。そういう点では相対的なのだ。言葉は絶対的な存在にはなれない。ただし、この言葉の裏は考えないでください。私のぼろが出るから。
[条件を隠しておけば言い得る]
◎"社長は社員に対して責任がある"と、"社長は社員に対して責任がない"とが同時に成り立つには、前の社員に"同社の"を付け、後の社員の前に"他社の"を付ければ成り立つ。"成り立つと強弁もできる"といったのはこういう意味であった。あるいは時間的に"勤務時間"(内と外)という条件を隠しておけば言い得る。でもこれは少々こじつけ的ですね。
[親は子どもである!?]
◎話を戻して、"親は子どもに対して責任がある"という、この"親"もその人の親から見れば子どもである。つまり、"親は子どもである"。そうなれば、その親の責任は、その"親の親"にあることになる。
[誰も責任を取る者がいない]
◎つまり、その親自身にはないことになる。かくて、責任がどんどん上(過去)へと送り返されてゆく。かくして、すべての罪はアダムとイブに着(帰)せられた。これが原罪(現在)の意味である。自信はないですが。そして誰も責任を取る者がいなくなった。どこかで聞いたセリフですね。
[最終的責任者がいない]
◎故に、"親は子どもに対して責任がある"というのは、誰も最終的責任者がいないのだから、"親は子どもに対して責任がない"、というのと同じ意味である、という結論に達する。
[言葉遊び]
◎しかし、これは現実的ではなく、論理的遊び、言葉遊びともいえるだろう。というのは、"親は子どもに対して責任がある"というのは、無期限だという隠れた前提があるからだ。つまり、期限については言及がない。そんな話を聞けば機嫌が悪くなる!!って。すみません。
[二十歳になれば親に返せない]
◎現実では、子どもは二十歳になれば、自分の言動に対しては自分で責任を取らなければならないからだ。もはや親には返せない。自己責任の成立する年齢がある。成人するとはそういう意味である。
[適用範囲をどう取るか]
◎だから、"現実の世界で"という限定(枠)をはめられれば、最初の"なぞそなぞ"の表現は通用しない。この辺り、私たちは言葉や表現の適用範囲をどう取るかに注意していかなければならない。
[食い違う、すれ違う]
◎曖昧であれば、聞き手と話し手とが異なる適用範囲を切り取っているかもしれない。それをお互いに明示しないと話が食い違う、すれ違う、行き違う。これが、最初に、"背後にある、潜んでいる意味にまで視野が広がってゆくかどうか"という手がかりを提示した理由である。
[前提のすりあわせをしない]
◎議論・討論を聞いていると、その前提を曖昧なままにしているので、前提のすりあわせをしないので、互いが食い違っても、両者ともどもその通りだといわざるを得ない。両者ともども正しいことをいっていても食い違う、それは違う土俵で相撲を取っているのだから。
[言葉の定義をはっきりさせる]
◎論文などでは、科学的にするために、まず初めに言葉の定義をはっきりさせる。科学的とは言葉の定義がはっきりして納得されているかどうかにかかってくる。科学の世界だけではなく、それは日常世界でも通用するが。