真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

悟りと正岡子規

[久しぶりにハイキング]
◎9月16日(晴れ)、まだまだ日差しが強い中、妻と二人で、久しぶりにハイキングをした。そんなに長い道のりではないが、普段歩き慣れていない身にとっては苦しい山道だった。
[美味しいおにぎりと冷えた麦茶]
◎そんな苦しさを打ち消させてくれたものがあった。急きょ作ったおにぎりの美味しかったこと。冷えた麦茶の有り難さ。妻のうれしい配慮であった。感謝。そんなうれしい体験を得られたと思いながら、帰る道中のあるお寺に言葉が掲げられていた。
[悟りとは]
◎何気なく見ると、
「悟りとは、平気で死ぬことではなく、どんな場合でも、平気で生きることである」。
正岡子規
とある。
[心を打つ言葉]
◎心を どんと 打つ言葉だった。私は、仏教(特に禅宗)に少々興味を持っていた。悟りとはどんなものだろうとも関心があった。それらに関して何冊も読んだこともある。
[武士道]
◎武士道は、仏教の禅宗の影響を受けたものだとも知っていた。有名な「葉隠れ」には、「武士道は、死ぬことと見つけたり」とある。
[武士道を下敷きに]
正岡子規のこの言葉は、その武士道を下敷きにしたものだろう。その上で、それをひっくり返して、というよりも、それを乗り越えて、「どんな場合でも、平気で生きることである」といった。この部分に、なるほどそうだったのかと、心に染み入った。
[弁証法]
◎私は、これは弁証法だと思った。それは正反合と一段ずつ上に向かって進む。
[逃げまどって生き延びる]
◎私のような凡人は、生きることも苦しい、ましてや死ぬことは苦しい、恐ろしい。生きても苦しいし、死ぬのも苦しい。何事にも面と向き合えずに、出来る限り苦しさから逃げまどいながら、その日その日をごまかして生き延びる。
[生死を奪い合う時代]
◎武士道は、その内で、死ぬ方の苦しさを切り捨てた、一刀両断した。もちろんいつも生死を奪い合う時代がそういわせた、そうさせたのだろう。死ぬ方に注意がより強く向かったのだろう。
[明治の正岡子規]
正岡子規は、慶応から明治を生きた俳人歌人である。 生死を奪い合う時代はもう過ぎ去っていた。その時代背景は大きいであろう。がともかく、彼は生きる方の苦しさも切り捨てた。
[一生を平気で生きるのは難しい]
◎死ぬ方は一瞬であるが、生きる方は一生である。その一生を平気で生きるのはなおさら難しい。そちらに悟りの重心を移した。時代の転換である。その時代を映した言葉である。
[生きている価値]
正岡子規は、「悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない」と、続けている。
[正岡子規の人生背景]
正岡子規の人生背景を手短に紹介する。彼は結核を患った。当時それは不治の病であり、この診断は必然的に死を意識し対面せざるをない。その病はさらに脊椎を冒し脊椎カリエスを発症させた。
以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けた。それでもなお病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出る事態にまで病状は侵攻した。 寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげる日々が続いた。
[生きる苦しみの体験から生まれ出た]
◎子規はかくの如き生きる苦しみを十分すぎるほど味わった。その彼が言った言葉にはずしずしと迫り来る重みがある。だから彼の言葉は、単に頭でひねり出した言葉ではない。体験から、生きる苦しみの体験から生まれ出た生の叫びでもある。
[肉体と精神を達観]
◎かくほどの生きる苦しみの中にあってさえも、子規は死に臨んだ自分の肉体と精神を客観視し写生できるほどに達観できていた。彼の言葉は、彼の悟りを得た、深めた順序をも表しているのだろう。
[生きる甲斐]
◎そうであっても、「楽しみを見出さなければ生きている価値がない」と、悟りを得ることだけが目的ではない。生と死を越え出るのは、越え出させるだけの生きる甲斐を見出していたからなのだと納得できた。
注)かなりの部分をWikipediaから引用転記しています、感謝。