真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

「ハウルの動く城」から私が読み解いたものは(2)

[ハウルの動く城]
◎前回(2008/10/5)の記事「「ハウルの動く城」から私が読み解いたものは」で、「ハウルの動く城」についての私なりの心理学的解釈を述べた。
[ハウルとソフィー]
◎そこで、子供っぽい「ハウル」と、父親ゆずりの、固定観念にとらわれる長女「ソフィー・ハッター」がハウルに触発されて過去から決別する(人生という)旅に出たことに焦点を当てた。
[ハウルの母親を中心に言及]
◎あの時にも少し述べたが、今日はハウルの母親を中心に言及したい。それをここで敷衍したい。宮崎駿の長編まんが映画には、肝っ玉母さん(魔女の宅急便、グーチョキパン店のおかみオソノさん)やばあさん(天空の城ラピュタ、タイガーモス号の女船長ドーラ)に近いような威勢のいい、エネルギッシュなおばさんが脇を固める。
[否定的な母親像]
◎母親といえば、シンデレラでも、白雪姫でも、否定的な母親像(虐げる継母、魔法の鏡に「世界で一番美しい女性は誰」と聞く王妃)が描かれている。
[飲み込まれて子どもの成長が止まる]
◎否定的な母親像に飲み込まれてしまえば、子どもの成長が止まる。シンデレラも、白雪姫も、その母親からいかに逃げ切って、自律を果たして、家庭外に幸せを築くかが描かれている。
[実の母親は登場しない]
◎所が、実は、「ハウルの母親」といったが、彼女は登場しないし、語られもしない。ここでも、シンデレラや白雪姫同様、実の母親は登場しない。
[マダム・サリマン]
◎つまり、母親は、いないも同然だということなのだろう。母親的な存在として、「マダム・サリマン」、ハウルの師匠で魔法学校の校長であり、宮廷に仕える王室付き魔法使いが登場する。
[4本の足がその幼さを象徴]
ハウルの場合は、「4本の足」で荒地を歩行する(幼い子どもが集めたがるがらくだで構成された)城がその幼さを象徴している。その幼さはどこから来ているのだろうか。
[荒野の魔女]
ハウルの場合も、否定的な母親像、白雪姫の母親のような「荒野の魔女」(若さ美しさとハウルの心臓に執着)に成長を妨げられている。
[ハウルの真実の精神年齢を表す]
◎「シュトラム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」の中にあるハウルの幼さは、その分身、(他人と応対するときにはひげを生やす)幼い子ども「マルクル」で表されている。マルクルこそがハウルの真実の精神年齢を表す。あるいは心模様を表す。
[否定的な母親像をそぎ落とす]
◎そこで、母親的な「マダム・サリマン」は一大決心をする。それは「荒野の魔女」(否定的な母親像)の力をそぎ、過干渉的な態度は、ハウルの様子を探るために、動く城に送り込まれた余り役に立たない小さな犬(かぎ回る機能、警官を犬と呼ぶことあり)で表す。このように彼女は否定的な母親像を大部分そぎ落とした。
[少女にハウルの成長を託す]
◎そして、少女にハウルの成長を託す。しかし、その少女には、役割的には老婆で表されるような、知恵と忍耐力と献身的な愛を期待(老婆の姿に変身)する。なにせ、ハウルは、美しい女性の心臓を食らうと噂されるのだから。少女のままではハウルの虜になってしまうだろう。
[幼い心にあやしい魅力]
◎事実、テレビなどでご存じだろうが、幼い心のままにある、少年や少女にはあやしい魅力がまとわりつく。その魅力は、テレビという離れた場所からは無害だが、実際に接すると虜になってしまう。
[相手に対するいらだちから来る暴力]
◎ちなみに、家庭内で妻に暴力(DV)をふるう男は、相手によって態度をころころ変えるハウルそっくりである。ソフィーは老婆として振る舞うので暴力は免れているが。暴力は自分の思い通りに振る舞ってくれない相手に対するいらだちから来る。
[表舞台から退く]
◎そのような男を作り出さないためにも、否定的な母親は、力をそがれてひからびた「荒野の魔女」に変わり果て、あるいは、ゴム人間を放ってハウルを監視する態度は無害な小型犬となって、表舞台から退く。
[否定的な母親像から抜けられない]
◎思春期の息子の成長には、否定的な母親像を前面に出すことを、母親は控えなければならない。ニートとかパラサイトシングルとかは、否定的な母親像から抜けられない姿のように私には思える。
[夫は妻の子どもと成り果てる]
◎日本では、ほとんどの男どもは、ハウルのように年齢的には大人であっても、精神的には子どものままで、妻は妻の役割を取れずに、結婚と同時に、夫は妻の子どもと成り果て、妻を平気でお母さんと呼ぶ(私も妻を母さんと呼んでいる、ということは...)。