真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

学校指導の最重要項目として、社会資源の活用を掲げるべきだ

ふっと、私の心に、「社会資源」という言葉が、思い浮かんだ。ということで、今日は、それについて思うところを書きたい。

現代社会では、ますます、社会資源の活用が大きな課題となっているように感じられる。逆から言えば、社会資源の活用能力が高い者が、社会において高い評価を受けるだろうと思える。

ということを考えると、まず学校がすべきは、個人が自立(自力)で解決できる方法、能力を身につけさせることである。大人になっていくとは、自立できることであろうから。

しかし、個人が自力で解決できる範囲は本当に狭い分野に限られている。そんな時に、次に何をすべきかを指導することが、学校での大きな課題である。

ということで、学校で、最も重要な指導課題とすべきだと感じる内容は、まずは個人の自立、自立できない分野に関しては、社会資源の活用をするという姿勢である。つまり、個人が、自ら、手を外に差し伸ばす姿勢をもたせることである。

これは、学校へ行く前の子供達に、家庭においても、親が子供に指導すべき大きな課題である。

なお、社会資源とは、人々の生活上生まれてくる問題の解決の目的に使われる、さまざまなの施設、制度、機関、知識や技術などの物的、ならびに人的資源の総称である。
この定義から、アフォーダンスという言葉を思い浮かべた。その意味は、「環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値」である。
意味/価値を、社会資源と置き換えれば、ほぼ同じことを述べているといえる。ところが、探索者の能力次第によって、獲得できる、意味/価値、社会資源は大きく異なってくる。

例えば、風邪を引いた場合には、近くの薬局が、その薬局内の薬剤師さんが、そこで売っている風邪薬が、その病人にとっては、貴重な社会資源である。もちろん、病院も大切な社会資源であるが。

私が、ブログなどを書くときに、最もお世話になる、ネットは、私にとっては、大切な社会資源である。

個人にとって、最初の、そして身近な、家族や友人も大切な社会資源である。つまり、自分以外のあらゆるものが、本当は社会資源である。

このことを、学校が、家庭が、しっかりと、子どもたちに教え込むならば、そうでなければ失われたであろう、たくさんの命が救えるかもしれない。

不登校児を抱え込む家庭が、その家庭内だけで抱え込むが故に、解決を困難にしているように感じられる。

植物が、水を求めて、栄養素を求めて、外に向けて、根を、ツタを、枝を、伸ばしていくように、問題を抱えた個人が、家庭が、解決を求めて、手を外に差し伸ばすことが、普通に出来る社会であって欲しい。

実いう私自身が、とても、一匹狼的姿勢の持ち主で、なかなか、他人に助けを求めて、手を差し伸ばすことができない。これは、多分に不遜な自尊心がじゃまをするのだろうと、思える。

だから、外に向けて、問題解決を依頼する手を差し伸ばすのをためらう気持ちも理解できる。

しかし、外に向けて、手を差し伸ばすことが、自立の次に来る課題である。他人に依存する姿勢をももつことが。

しかし、そこで終わってはならず、次に、自分が他人の社会資源となって、他人から差し伸べられる手に、暖かく応じていくという、相互依存の段階にまで高まっていかねばならない。

こんな社会になれば、社会は、本当に住みやすい、住むのにふさわしい、居心地のいい場所となっているだろう。

便所メシともおさらばできる学生諸君が、いじめに悩まなくても済むいじめられっこが、子供の問題に悩む主婦に解決が訪れたと喜べる女性が、一人でも多く、生まれ出ことを期待している。