真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

「失われた10年」とは誰にとってなのか。

遅まきなのですが、余りにも遅まきなのですが、「失われた10年」という言葉に疑問が湧いてきたので、その意味を調べてみた。
いままで「失われた10年」という言葉を聞いていても、何ら違和感を感じなかったのに、最近、「失われた」という言葉に何か違和感を感じだした。
失われた10年」とは、「日本における失われた10年は安定成長期終焉後の1990年代前半から2000年代前半にわたる経済低迷の期間を指す語」である。
また、「失われた20年」とは、「日本において安定成長期終焉後の1991年(平成3年)3月から2012年(平成24年)11月頃までの約22年間を指す」そうである。
意味的には、経済低迷の期間を指すそうであるが、それでもなおかつ疑問は消えない。その疑問とは何かといえば、何故「失われた」という言葉が使われているのだろうか。
私が感じるのは、「失われた」と感じているのはどんな人々なのだろうかということである。思うに、工業社会にどっぷりと漬かっている人々ではないだろうか。そんな人々にとっては、このような年月は、季節で言えば、冬なのだろうと思える。
「失われた」という表現には、(自分達にとっては)「無駄であった、無意味であった」という意味を感じ取れる。
でも、違った人々にとっては、そのいわゆる「失われた10年」「失われた20年」は、実りの稲を刈り取られた田んぼを耕し、種をまき、芽が出てくるのを楽しみに待つ早春の候ではないだろうか。
以下に述べる事柄に関わる人々にとっては、経済低迷によって、自分達にも出番が回ってきたと感じている人々ではないだろうか。
言いたいのは、この経済的低迷の時期を境として、主役として表に立つ人々が、大きく入れ替わりだしたのではないだろうか。
「失われた20年」とは、主役の交代の間、幕が降ろされた、幕間であったのではないか。
そして、「失われた」とは、主役の座から降りなければならない人々が発した惜別の情を言い表すのではないだろうか。
また、この表現を平気で使って違和感を感じていないメディアも、やはり工業社会にどっぷりと漬かっている側に身をおいているのではないか。視点がそこに張り付いているのではないか。
ということで、ここからはすべて、引用from"Wikipedia"
「1990年代、携帯電話やゲーム機器、家庭用コンピュータとインターネットの普及によって、アニメ制作は幅広くなり、さまざまなハードやソフトの開発が進んできた」。
「1990年代から成功を続けている宮崎駿作品の『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などが登場したのもこの時代である。『ドラえもん』の劇場用長編も公開が始まっている」
「1990年代はアニメーション映画はほぼ毎年日本映画の興行成績の上位に位置しており、1989年の『魔女の宅急便』を始めとして、1991年は『おもひでぽろぽろ』、1992年は『紅の豚』、1994年は『平成狸合戦ぽんぽこ』、1995年は『耳をすませば』、1997年は『もののけ姫』、1999年は『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』と、以上がその年の日本映画興行成績の最上位を記録している」
「2000年代になると、アニメなしでは日本映画は成り立たないとまで言われるほど、アニメ作品の比重が増加した」
「1980年代初めには全米各地に広まって、マスコミが盛んに取り上げるようになり、寿司ブームと呼ばれるようになった」
「米国の寿司ブームは1980年代後半に欧州に伝播し、その後中南米、中近東、アジア、豪州などに広がった。ブームが米国から始まったために、各国とも米国と同様、客の注文は巻物が主体となっている。寿司店にやってくる人々は、寿司ばかりでなく、そのほかの日本食にも興味を示すようになり、寿司ブームは日本食全般のブームに発展した」
形のある製品づくりから、無形の文化の創造が表舞台に立つようになったといえるのではないだろうか。これも、「失われた10年」「失われた20年」があったればこそと感じられるのだが。
ひっそりと撒かれていた種が、経済的低迷のおかげで、芽吹き始めたと感じられるのだが、私には。