真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

承認は、上位者からのお墨付き

今日は、承認ということについて考えてみた。承認は、力によって手に入れたり、儀式として納得させたり、法の力で獲得したり様々な方法がある。
承認は、上位者からのお墨付きを受けるという形も多い。たとえ、それが全く単なる形式であったとしても。私的にではダメで、やはり公式の承認を欲しがる。
注1)式は、社会に向けて発信する承認儀式である。
注2)日本での最高承認授与者は天皇である。信者にとっての最高承認授与者は神仏である。ところが、承認なしで実力だけを頼りとしたのが戦国大名たちである。
ところで、今回この記事を書こうとしたきっかけは、私がネットでの公開講座を受講していて、その講座視聴からの影響である。
参考)ネットとリアルの激突は、超国家と国家の衝突 - 真 夢人 日記
その講座「中世の自由と平等」は、大学レベルで中学高校での知識情報では得られなかった内容なので、受講するのは、とても頭のかき回しにはいい方法である。歴史を、「承認」をキーワードして眺めてみるのも面白いと感じた。
社会的生物では、感情という形で、他者に自分の心理状況を理解させて、行動を誘発させたり、行動を思いとどまらせたりするシステムを持つ。
つまり、感情は自分の今の心理状況を他者に承認させる手段でもある。そのことによって、無駄な闘い、無駄な行動を実行しなくて済む。
話を戻すが、講座受講によって、自分の中で常識として疑いを挟まなかった事柄に、真っ向疑問を投げかけてくれる。自分の浅い常識が崩れていくのを感じる。
そして、あらためて自分でゆっくりと考える機会を与えてくれる。ということで、ここで承認ということについて考えてみた。
承認といえば、欲求階層説を思い出す。そこで、"欲求階層説と個人と国家 - 真 夢人 日記"から引用する。
「欲求階層は、低い段階から、1)生理的欲求→2)安全欲求→3)社会的欲求→4)自我の欲求→5)自己実現欲求と、順次高い段階へと上昇する」
そこには直接「承認」という言葉が出てこないが、社会的動物であれば、他者からの承認なしでは生きられない。承認とはある意味「受け入れ」でもある。居場所の確保でもある。
土地が命の源である時代では村十分(村八分ではなく)は死を意味する。集団内のいじめによる無視は心の死にもなりかねない。
社会的欲求の次に来る自我は、社会からの承認(フィードバック情報)によって形成されてゆく。社会的承認なしには自我は生まれない、育たない。
社会的承認の中では、"Good!"、"Bad!"は最も多用される、簡単な承認のサインである。通例、"Bad!"は承認とはいえないが。どちらかと言えば、"Bad!"は不承認のサインである。
"Good!"の承認が多くなれば、自信をつけて、自立の方向へと進んでゆく。
"Bad!"の(不)承認を多く受ければ、自己卑下、劣等感を強めて、軍門に下り依存の方向を強めてゆく。
つまり、相手を支配したければ、相手に"Bad!"を浴びせ続ければよい。相手はそこから離れて自立する気力をなくして、服従してゆく。
そのような者が、なおかつ社会というその集団の中に所属し続けざるをえないならば、従属せざるを得ない。
子どもを支配したい親は、無意識的にであったとしても、子供に"Bad!"のサインを送り続ける。結果、ひ弱なダメな子として親の庇護を求め続ける。
これは、親だけではなく、支配的な上司やリーダーでも該当する。自律的な良き部下を育てたいならば、"Good!"の承認は必須である。
だから、相手を意欲的で積極的な方向へと向けさせたいならば、"Good!"の承認を多く送り続けていかなければならない。
そんなリーダーは、指導を受けた者が、自分のもとを去るのは、自分への勲章として、受け止めねばならない。
自信を持った人は、やがて他人からの承認を必要としなくなって自立してゆく、自己承認基準を獲得し、自己実現欲求に促されて。
つまり、自信を持って、感謝しながら、自分の元から去っていく部下が多ければ、それは指導者としての能力が高いことの証である。