真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

知ると気づくの違いはなんだろうか

先日、送られて来たメールを読んでいて、こんな記事、「「気づき」「学び」「成長」の3点セットが大好きな人の特徴は? | プレジデントオンライン」、に出会った。
読んでいて、気づくと知るとは、どういう違いがあるのだろうか、と考えた。ということで、今日は、そのことを述べたい。
気づくで、まず最初に思い浮かべた言葉が、「見当たり捜査」、であった。私は刑事ドラマが大好きである。
それはさておき、見当たり捜査とは、「指名手配書の写真や防犯カメラの画像などから容疑者の特徴を記憶し、駅や繁華街を歩いて似ている人を捜し出す捜査」(引用from「見当たり捜査とは - コトバンク」)、である。
人達の流れの中から、捜査員の頭の中にある記憶(人物)と照らし合わせて、合致する者を選び出す。そして、あっあいつは犯人だ、と気づく。
次に思いついた言葉が、「子を持って知る親の恩」、という諺である。この諺では、気づくではなく知るという言葉を使っているが、単に知るだけではなく、気づくことも含むと思う。
知るとは、知らなかったことを知ることであるが、気づくは、勿論、知る行為も含むが、中心にあるのは、親が自分にしてくれた行為の中にあってそのときには気づけなかった意味、価値、などを気づくことである。
つまり、気づくには、すでに自分の中にある記憶、体験などを再点検、再評価、再認識などをすることである。
それに対して、知るとは、単に、知らなかったことを知るにすぎない。自分の頭の中になかった事柄を仕入れることだけを意味する。
目先を変えて、目に関して、「周辺視野」、「中心視野」、という用語がある。その内で、周辺視野は、「何かに焦点を合わせる前に、第一印象や全体観をつかむためにある」。焦点を合わせるとは、中心視野に入れることである。
これらの用語を、事実とは異なるのだが、比喩的に使うと、大量に処理できる無意識的周辺視野で取り込んだ事柄、体験などから、これはと思ったことを、意識的中心視野に入れてじっくりと点検する。
私達が、日頃、無意識的周辺視野で見て、しかも意識的中心視野で確認することなく記憶に入れていた体験を、外にある何かが機縁となって、再確認する行為が、気づきではないだろうか。
例えば、「山路来て何やら床し菫草」。日頃、折ある毎に見ていた菫草に何も感じることなく通り過ぎる(無意識的周辺視野)。
だが、山路を苦労して登って来て、一服したときに、ふと何気なく見た菫草の床しさに、存在感に気づいた。意識的中心視野で捕らえ直す。
世の中には、評論家家業という職業がある。例えば、経済関係の統計があるとする。素人には、統計の数字を見ただけでは何の意味もわからない。
しかし、専門家、玄人には、そこから意味を読み取れる。その読み取った意味を、解釈、解説するのが、仕事である。数字の羅列が持つ意味に気づく能力を持っているのだ。
別の言葉でいえば、表面に見えている事柄の背後に隠れている価値、意味、意図、などなどを、読み取れる知識と経験を積むことによって、気づきの能力を獲得できる。
これらの行為を、意識的に行うのが、心理療法である。特に、気づき療法とか、内観法は、気づきを促進させることを狙った技法である。要するに、無意識の意識化である。
瞑想も気づきを促す技法である。頭の中にある体験全てにおいて、気づきが行われ終わるまで繰り返される。
そのことによって、外界にある、外界で行われれる行為の意味、価値に気づくことができるようになる(はず?)。