真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

ちいさな不安が世界を人を動かしている、でも大きな不安が

我が家には、犬が一匹、猫が一匹同居している。ネコは二代目である。


犬の「ナナ」は、今13歳、幾分衰えが目に付くようになった。猫の「ニーナ」は、女盛りの4歳。夏の今は、それぞれ涼しい場所を見つけて、だらりと横たわっている。
彼らを見て、私は思う、「退屈ではないのだろうか」、「退屈しないのだろうか」と。人間ならば、とてもじゃないが、耐えきれないほどの退屈に襲われるだろうと感じる。
思うに、動物は、「餌と敵」を巡って生きているのだろうと。家畜になれば、「餌と敵」に関しては、心配なくなる。人間もある意味、「文化」という檻の中で暮らす家畜であると。だから、文化から外れると野生の動物と同じ暮らしをする。
つまり、動物は、「餌と敵」を心配しながら生きているのかも知れない。で、人間はどうなんだろうか。
ほとんどの方がご存じだろうと思えるほど有名なマスロー(マズロー)の「欲求階層説」がある。
参考資料→(私のブログ)「欲求階層説と個人と国家」
念のために、それらを掲げると、
第1段階: 生理的欲求/食欲、睡眠欲、性欲など生物的に生きるために必要な欲求。
第2段階: 安全安定の欲求/衣服、住居、カネなど、危険から守られることへの欲求。
第3段階: 所属愛情欲求/社会的欲求/集団に所属したり、家族や他人から愛されることへの欲求。
第4段階: 自我尊厳の欲求/他人から承認され、尊重されることへの欲求。
第5段階: 自己実現の欲求/自分ならではの素質・能力を発揮して自己を成長・発展させることへの欲求。
第3段階、第4段階、第5段階は人間独自の欲求なのだろう。
動物は、「餌と敵」の心配(心配り)、不安に突き動かされている。その不安がないときには、心穏やかに寝そべっている。結果、「餌と敵」の心配のない家畜は、ひたすら寝そべって横たわる。
私は、人間を突き動かしているのが、やはり「不安」だと思える。「餌と敵」は、第1段階と第2段階である。それに関して、いまだに多くの人々が「大きな不安」として抱えている。しかし、先進諸国では、ほぼ解消したといえよう。
大きな不安は、その人を現在地にすくませるが、小さな不安は、「好奇心」と名を変えて、その人を未知へと駆り立てる。
欲求とは、「欠乏」(不足)である。それが満たされると、「満足」する。「不安」も欠乏である。「好奇心」と呼ぶ「知識情報の欠乏」。それを補うために、「好奇心」が、その人を駆り立てる。
人間には無限の、つまり、果てのない、果てしのない、「欠乏」(不足)=「欲求」を持っている。
なぜなのか。動物は、「身体中心」であるので、身の程をわきまえている。身の程以上には欲求しない。
所が、人間は、「心中心」なので、身体がそれ以上に大きくならなくなっても、心はいつまでも不足を訴える。
キリスト教では、「神の似姿」というが、神と同じ大きさにまでなろうと、人間は欲する。心は、どん欲で、どんどん大きくなろうとする。
その心が、物質に、お金に向かうと、物質やお金は有限なので、他人の分まで、奪うことになる。これが、不幸の源である。
キリスト教や仏教は、それをさせないようにと、キリスト教では、「愛」を説き、仏教では、物欲を超える「無我」を説いた。つまり、物欲ではなく、精神的満足を求めることを説いた。
ちなみに、「般若心経」(fromWikipedia)は、心の性質を説いたものである。
参考資料→「般若心経」
参考資料→「般若心経(現代語訳)」=from"Wikisource"
日本では、先進諸国では、幾分か、物質に、お金に向かう欲から、精神的満足へ向かう文化的価値を求める心が育ち始めている。
その先頭に立っているのが、今は日本である。世界に、精神的満足をもたらす文化的価値を広めている。日本人は、そこに心いたすべきである。日本がそのために、全力投球する時代が来た。