真 夢人 日記

心理学、哲学、脳科学、宗教に関心があり、それらについて自分なりにまとめたものをこのブクロで発信していきます。

思想を持つべきとは思っても...

以前、私は、このブログで、「自分なりの判断の基準を持つ - 真 夢人 日記」、という記事を書いた。そこから引用。
「弱さの原因の一つに、優柔不断、なかなか決心、決定、決断、決意などができないことから来る場合がある。それらがなかなかできない理由として、判断の基準(規準)を持っていないことがあげられる。例えば、先程の「女は弱し」、であるが、女が若い頃には、定まった大きな目標、生き甲斐などを持っていないことが多い。ところが、子供を持つと、すべき事柄が定まることが多い。つまり、判断基準が明確になるのだ。これが、母となった女を強くする原因であろう」
ここで、判断基準として過激思想を手に入れたとしたら、どうなるだろうか。例えば、オウム真理教に出合って、それに共鳴してしまった、としたらどうだろうかとか。
事実、高い知能を有する大人達によって、日本版テロが、引き起こされてしまった。
知能明晰な大人が、無差別殺人を、平然と実行している、しかも用意周到に。これは、単に、間違った判断基準を手に入れてしまったからだろう。もちろん、本人達は、その思想を素晴らしいものだ、と絶対的確信を持っていた。
動物は、生まれながらの知能、本能(種としての生まれ持った判断基準)を携えて生まれて来る。ところが、人間の大脳新皮質は、全く情報の含まれないからっぼ状態で、誕生する。
もちろん、人間も動物の仲間なので、本能も持ち合わせているが、脳の多くの部分を占める、大脳新皮質は、白紙である。
つまり、人間的部分は、生後の環境から得られる情報に全面的に依存している。だから、どんな判断基準を手に入れるかが、決定的重要性を持つ。
という、誰にでも、過激思想を持ってしまうということが起こり得る可能性を脳的には、秘めている。
これは、私が個人的に思っている仮説に過ぎないのだが、子供時代に、親やそれに近い大人から、基本的な、健全な生活態度を身につけられる、という継続的な体験が、乏しかったのではないか、と危惧する。
特に、命(単に人間の命だけではなく、生きとし生ける全ての命)の大切さは、基本中の基本として、身につけさせるべきものと、確信する。
参考)「古今和歌集『仮名序』の中で「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」」
生活的な不満から、過激思想に走るのは、やけっぱち的反応、発想だと思える。だが、不満は、単に生活環境からだけ来るわけではない。
精神的不満、例えば、生き甲斐のなさ、生きる目的・目標のなさ。この精神的不満は、心を掻きむしるほどの強烈さを持つこともあり得る。自殺に走ることもあり得る。精神の病に至ることもあり得る。
もし、そこに、過激思想が投げ込まれれば、飢えに苦しむ餓鬼の如くに、それへと飛びつくかもしれない。
参考)「http://www.jiji.com/jc/zc?k=201512/2015120600072&g=int
参考)パリ同時多発テロ:なぜ若者たちは過激思想に走るのか - 毎日新聞(なぜ若者たちは過激思想に走るのか)
そんな折りでも、基本的な、健全な生活態度を身につけていれば、おそらく、それをはねつけるだろう。
私が上記のブログ記事「自分なりの判断の基準を持つ」の中で述べたのは、判断の五つの基準であって、思想内容ではない。
各自の思想は、自由に選べばよい。思想の自由である。だが、行動の完全なる自由まで保証はされていない。典型的な制限は、他人の命を奪う自由である。
だが、テロはそれをすることによって、相手側に、大きな打撃を与える。それをテロ実行側が、是として認めるならば、これは思想戦争である。どちらの思想を是とするかの。
しかし、日本にも、「小の虫を殺して大の虫を助ける」という表現がある。もし、これを肯定するならば、テロ思想と底通している。
テロ思想は、そんなに、我々から遠くない思想と思わなければならないのではないだろうか。ただ、現在どちらが優位にあるかだけの違いにしか、私には思えない。お互いが、貼っているレッテル(ラベル)を取り去って、行動だけを見てみると。